新人時代は失敗の連続、厳しくも温かく見守ってくれた上司たち

6階東 呼吸器病棟  
副看護師長 井熊衣里

小学生のときテレビで医療現場をカメラが追うドキュメンタリーを見ました。「うわぁ、こんな仕事があるんだ」と、看護師や医師などの職種はわからなかったけどその仕事ぶりが印象に残りました。そして高校では地元、磐田市の衛生看護科に進学。そのころに祖父が体調を崩して入院したのですが、お見舞いに行く先で看護師さんが実際に働く姿を目にしました。そして「そうだ、私がやりたかったのはやっぱりこの仕事なんだ」と確信したのです。高校を卒業後は京都の看護専門学校に進学しました。衛生看護科卒なので2年で看護学校を卒業し20歳で看護師になりました。新卒で働いたのは京都の総合病院。消化器外科に配属されました。私はあまり器用ではなかったので失敗ばかりしていました。その都度よく怒られました。本当に厳しい指導を受けましたが、いつも指導には一貫していたことがありました。それは「患者さんの立場で考えているかどうか」ということだったのです。厳しく叱られるのはいつもそれに反したときでした。そこで私は「看護のなんたるか」について身をもって知った気がします。当時の看護師長さん、主任さんは新人時代のあこがれでした。今でも感謝をしています。その病院の消化器外科で8年間、働きました。


30歳を前に地元、磐田市立総合病院に就職。呼吸器病棟へ。

30歳を前に地元に戻り、当病院に就職をしました。それまでの経験で終末期の看護に興味をもっていた私が配属されたのが呼吸器病棟でした。肺がん、肺炎などの疾患を治療するため患者さんは高齢者が多い部署です。また近くの工場に勤務する外国人労働者やその家族が多いこともこのエリアの特徴の一つです。人間にとって呼吸ができなくなるというのは、ものすごく恐怖です。治療としては酸素や薬剤の投与などをしますが、それでも精神的に患者さんは追いつめられることも多くナースコールを頻繁に押す患者さんもいます。死の不安に苛まれているのです。だから一人でいることが怖い、不安でしかたないのでしょう。そういった患者さんの心理に寄り添い、そばにいて背中をさすったり、手を握ったりします。忙しいなかその時間をつくるのもたいへんなのですが、そうして触れ合うことで恐怖心が薄れ入眠されることも多いのです。こんなことがありました。工場勤務をしている外国人の若い奥さんが入院されました。日本語はほとんどしゃべれません。でも呼吸が苦しく痛みを感じていることはわかります。私はできるだけ近くにいてその表情や発せられる言葉から彼女の状況を把握して看護に努めました。すると言葉は通じませんでしたが、安心して落ち着きを取り戻すことができました。患者さんに寄り添うには、恐れずに、患者さんから出されるサインをキャッチすることも必要なのだと思います。以前は病気を告知され落ち込んでいる患者さんに対して「今は私ができることなどないだろう」と距離を置いていましたが、今は私が話しかけることで本人がなにか自分の心を整理するきっかけになるかもしれないと考えて、こちらが勝手に判断せずにまずは声をかけてみるようにしています。


副師長になってからは「いかにスタッフの思いをサポートできるか」を心掛ける

2022年の4月から副看護師長になりました。スタッフはそれぞれがいろんな思いをもって働いています。私はその思いを大切にしてどうすればそれが実現できるかをサポートするようにしています。なかにはマンパワー面などで実現困難なこともあります。でも「無理だ」と言う前に「どうやったらできるのか」を考えます。「努力は必ず報われる」。看護師になってからずっとそう思ってきましたし、今もそう思っています。